母の戦争体験
今日は、77回目の終戦記念日ですね。
今年の5月に98歳で亡くなった母にインタビューした、従軍看護婦としての戦争体験を掲載させていただきます。
ひとりの女性が体験した戦争の記録です。
お読みいただけると幸いです。
和田多紀子


昭和18年8月に大東亜戦争が始まりました。私はそのとき19歳で、内地の病院で普通に勤務していました。けれど戦争が始まってからは、普通に仕事をしているのがもどかしくなって、陸軍病院に志願しました。
志願が採用されて、翌年(昭和19年)の5月に新発田の陸軍病院に志願した20人が全員集まって教育や訓練を受けました。
6月末頃に博多港から上海に上陸しました。私は北京の「北支(ホクシ)派遣軍北京第一陸軍病院」に入りました。
若い頃でしたので、みんな張り切って仕事をしました。お国のために参加しているということで胸が弾んで、一生懸命患者の看護にあたりました。
患者さんは張家口(チョウカコウ)とかリンプンの作戦に参加した負傷兵で、毎日北京の第一陸軍病院に運ばれてきました。陸軍病院は、自転車で回らないと一周できない大きい病院でした。
患者さんは、ものすごい戦地から帰ってきた方たちなので、軍服とか色々な持ち物が全部汚れていました。体にしらみもついた状態でした。入り口で患者さんの体を裸にして、着てきた服や持ち物を全部煮沸消毒して、患者さんを入浴室に連れて行ってきれいに洗ってやりました。
1部屋に25人の患者さんを収容して、その25人の患者さんを1人で看護したのです。
交替制だったので、どの部屋に行くかがいつも違ったし、患者さんの名前もなかなか覚えられなかったです。
婦長さんはオオバ婦長さんという方でとても優しく、何事もよく教えてくださいました。
でもものすごく厳粛で、規則正しくて、間違ったことをすると大いに怒られました。
朝8時の訓示のときには整列をして、今日1日の出来事や受け持ちの仕事を全部命令されて、その通りに1日を過ごしてきました。
120人くらいの病棟の夜勤を2人でやりました。その勤務のときに餓死する方がいました。普通にお話ししていても衰弱がひどくて、1回目の巡回のときは異常なかったのに2回目の巡回のときには仮死状態になっていました。その方は涙声で「お母さん今帰ったよ」と大きな声で一声だけ叫んで、息が絶えてしまったのです。
その方が私たちの手をしっかり握りしめたとき、痛かったことは今でもよく覚えております。
少年飛行隊もいました。高校を卒業したような少年たちでしたが、そのうちの1人が、胸部を患って病院に残ることになりました。
他の20人の隊員が朝早く病院の前に駆けつけて、入院してる方に「これから僕たちは南方に出発するから、これでさようならだろう」と言いました。
その患者さんは「俺も行きたい」と言って泣き崩れてしまいました。
その方は今、内地で元気に暮らしておられます。
ナンイ飛行場には少年飛行隊が多かったです。でも臨時の飛行隊でしたので、1ヶ月か2ヶ月訓練をすると、南方へ出発してしまいました。
陸軍の兵隊も南方へ向かって行ったので、北支は何か寂しいような雰囲気になりました。軍の作戦がこちらの方になかったとみて、新しく患者さんが病院に入ることもそのうちなくなりました。
その間色々なことがあったけれども、軍隊の命令に対しては、若い頃でしたので元気よく規律正しく良く守ったものだと今考えると不思議なくらいです。
防空演習があった際には、「病院に爆弾が投下された」という想定で、屋根の上にはしごをかけて、バケツの水で消火しました。そのときに私は思わずはしごを駆け上って、たった1人で他の兵隊と混じって一生懸命消火の訓練をしました。
それを大隊長が見て、「あの看護婦は誰だ」ということになりました。
2、3日後、命令が出て全員集合いたしました。
そのとき、「防空演習で兵隊と一緒になって消火を務めた看護婦はヨシダフジエさんだ。大いに勇敢である」と言われて、部隊長閣下から表彰状をもらいました。
休暇のときのはなしです。北支では池の氷がよく張るので、「スケートをやらないか」という患者さんの勧めでスケート靴を履いてみました。やっと歩けるようになったと思ったら転んで足をちょっと痛くして、もう氷の上はこりごりだと思いました。
けれども治ったらまた行きたくなってたので一生懸命練習したら、少しずつスイスイと滑れるようになって嬉しかったです。
もう1つの行事はゴルフです。お庭みたいなゴルフ場が作ってありまして、休みのときに皆さんがゴルフをするのですが、私もその仲間に入ってゴルフをしました。
庭球の上手な将校さんがいまして、私も「テニスを教えてあげるからラケットを持ってきましたよ」と言われました。私はそのラケットをもらって2,3回練習しました。でも、その少尉殿が網に左手を引っ掛けて肩を故障してしまいましたので、練習は中止になりました。
もう1つの娯楽は卓球です。ナミカワ上等兵という方がとても卓球が上手で、私もその方から指導してもらいました。お昼の休み時間にその卓球台を出す手伝いをして用意をして、そしてナミカワさんと卓球を一生懸命やって、随分と上達しました。
宿舎でも卓球台があって、対抗試合がありました。紅白を決めて私は紅組になりました。私は2試合目に出たのですが、ナミカワさんからよく教えて頂いたおかげで1位になりました。
1位の商品は、カイコウシャという軍人の品物を売る店のチケットでした。私はタオルの寝間着を買って帰りました。
みんなで一緒になって軍人の勇気を鼓舞するために、夜間、北京コウハイの北海(ペイハイ)という公園に行って、夜の10時頃から20人くらいで「火筒(ホヅツ)の響き遠ざかる」の歌を歌って気持ちを一層引き締めました。
陸軍病院の仕事内容は、内地の病院と違って大勢の患者さんを1人で受け持ちます。注射係やいろいろ係がありました。1人でするのが大変ですので、衛生兵と2人組になってやりました。
でも衛生兵の方は注射ができなくて、看護婦が全部それをやりました。衛生兵はその後始末をしてくれました。
オオトモさんという上等兵と一緒に病室の勤務をしたことがあります。オオトモさんが朝出勤したとき、左目の上が赤く腫れていたことがありました。どうしたんですかって訊いたら言い渋っています。
他の衛生兵が来て、昨晩上司に革のスリッパで「大したこともしない」と顔を殴られたと教えてくれました。
なんとなく気の毒に思いましたが、それが軍隊であると思いました。オオトモさんも「自分が悪かったからこうなったんだ」と言いながら、一緒にお仕事をしていました。
半年に1回勤務交代があります。結核病棟でも半年間勤めましたが、そこではしょっちゅうお部屋の消毒をしたり、お布団などを全部日光にさらしたりしました。毎日消毒をしてまた元のベッドへ戻していたのです。
消毒器は最初に背負うと重くて、なかなか思うように動けない。だから最初にたくさんお布団にかけて軽くしました。軽くしたものをかついで回ったのです。
「ヨシダさんは随分と早く終わって偉いですね」と褒められたけども、インチキしたからね。

オオバ婦長さんは私のことを、「ヨシダさんは一度思うと徹底的にやらないと気が済まないところがある。患者さんの汚したトイレも一生懸命に綺麗に仕上げてくれて、偉いと思いました。何でも一生懸命頑張っている良い看護婦ですね」と褒めてくれました。
5人部屋の中で、私は部屋長に選ばれました。早く戦地に行った方が部屋長になって、遅く入ってきた方を宿舎で指導するような仕事です。
そこで抜き打ちの「私物検査」というのがときどきあります。私も私物検査があることは聞いていますけれども、いつあるのかそれが分からなかった。
他の看護婦さんには、「私物検査で婦長さんに見られて大変なものがあったら私が預かる」と言いました。部屋の人達の貴重品や、恋人の写真、恋文もいっぱいあったので、私は全部隠しました。何事もなく検査が終わってよかったと言ってみんなで喜んでおりました。
陸軍病院の中には食品倉庫があって、お米とかお菓子とか乾パンとか砂糖とかそういう物資をしまっていました。
病棟でコーヒーを飲みたいと思ってもお砂糖がなかったときに、誰かがその倉庫へ忍び込んでお砂糖を一袋持ってきて、みんな喜んでコーヒーを飲んでいました。
そしたら次の日に婦長さんに見つかりました。
朝礼のとき、婦長さんが「誰が倉庫に入ったのか」と訊きました。
一列に並ばされ、「はっきりするまで仕事をさせません」と言う厳しい婦長さんでした。
約10分か20分、誰も発言しない。みんなそのお砂糖でコーヒーを飲んだので、仕方なく私が「すいません。ヨシダ看護婦が倉庫へ行って持ってきました」と婦長さんに言って、それで解散して、仕事をすることができました。
婦長さんは後で私の肩を叩いて、「ヨシダさんはそんなことする人じゃないから嘘なんでしょ」と言いました。私が「でも婦長さん、仕事が進まないと困りますので」と答えると、笑っておられました。
陸軍病院の夜勤のときに、隣りでしゃべっている患者さんが、2回目の巡回のときに亡くなっておられることが多々ありました。
本当にそのときは悲しくて、その方をなでてやった覚えもあります。栄養失調になって、みんなそうなってしまう。栄養失調って怖いね。
その患者さんを霊安室に移して、1人でその人のもとに立たされたの。1時間くらいしたら衛生兵の方が変わってくれて、夜勤の仕事に戻りました。
餓死した方は何人もいました。「お母さん今帰ったぞ」と私たちの手をしっかり握って息が切れたのです。
戦争だけはなってほしくないと、私はそのときに思ったことを覚えています。
昭和20年8月15日に集合がかかって、「これから天皇陛下の玉音放送があるから皆さん集合するように」と指示があって、ラジオの前にみんなで整列して聞いたよ。
そしたら負けたっていう宣告で、みんなそこへ座り込みました。一言も声を出す方がいなかったの。その1週間くらい前に、「どうも戦局が危ないから、みんな内地に送るものがあったら、自分の爪でもいいし髪の毛でもいいから封筒に入れて内地に出しなさい」という命令がありました。私は髪の毛と爪を袋に入れて送ったの。
終戦になってから、張家口(チョウカコウ)からソ連が攻めてきたの。兵隊はいいけれども、女性は危ないから特に注意するようにと言われました。
だから、小さい軍服を着て勤務していたことがありました。そして患者さんを、内地に送り返しました。その後は支那の兵隊さんがその病院を全部占領しました。支那の兵隊さんも看護しました。
その方たちは万年筆を出しても、使い方がわからない。時計を出して見せてもそれが腕時計ってことがわからない。
お薬がたりないので、できものができるとお薬がなくなるので、隅に行って壁の粉を出して、その粉をつけてやるとすごく効いて。どういう生活をしてたんだろうと思いました。
へんぴなところから来たんだなあ、こんな方たちに負けたんだなあと悔しかった。
戦争というものはこういうものであると、支那の兵隊さんを1年間看護しながら思いました。
そのあと大連の捕虜収容所で1か月生活をして、それから内地還送の命令が出ました。
今の門司港へ上陸したね。門司港に上陸して思ったのは、大陸の広いとこしか見ていなかった私たちは、門司港は山が上から押しかかってくるような感じがしたね。日本はやはり狭い島国だなって感じたよ。
内地の病院で平々凡々として勤務している方も、大東亜戦争が始まったらみんな「こうしちゃいられない」って言ってずいぶん病院を辞めて志願したね。病院でもきっと一時困ったこともあるかわからんけども、お国のために行くからって全部許可してくれてね。
私とハセガワさんという方が一緒に出征したので、大勢の人で旗を持って送ってもらったりね。
それから東京へ集合して、全員が揃うと新発田の陸軍病院にまた帰ってきて、そこで訓練をしてそして戦地へ経ちました。
戦地に行く道中、「敵機からの魚雷が来るかもしれない」と言われました。何隻も船が沈没をしているから、この船もそういう目にあうかも分からないから、みんな覚悟しなさいって。
そのときこそ、みんな緊張して硬くなって、「早く着かないかな」と思ったよ。でも運が良くて魚雷に合わないで上海についたわけ。戦地に行くときはおっかなかったよ。
戦地に行ってからも「内地に帰りたい」とは思わなかったね。お国のために尽くしましょうという気持ちがあったよね。お国のため尽くすっていう教育が小学校に上がるころからあったからね。修身や国語や歴史とかで、東郷元帥や山本五十六などの偉い人の話をよく聞かされたから。
男性は20歳になったら徴兵検査があったけど、外れた人は悔しがってね。甲種合格と乙種合格があって、甲種合格はすぐ軍隊に行ったの。乙種の人はだいたい内地で仕事していたけども、そのうちに、その方たちにも召集令状が来たの。
戦地に行く方は、「生きて帰りません」っていうあいさつだったよ。召集令状が来れば戦地に行って命を捧げるつもりで出かけたもんだ。
徴兵検査の合格で男性の価値が決まった感じだったね。体格がいいとか頭がいいとかね。既定の体格に足りない方は甲種に不合格で乙種になった。乙種の方は内地に残って、「どうしても必要なとき」に召集令状がきた感じだね。
そのあとは、19歳や20歳の学生も戦争に少年飛行隊(特攻隊)で取られるようになったね。
そのころは、私たちのような若者や一般国民にも軍隊というものが叩き込まれていて、小さいうちから自然に教育にあったね。日本は神の国で、神風が吹くから負けないと言われたよ。
北支にいたときは、遺書を送るまで負けるなんて全然思わなかった。サイパンが玉砕した、どこか玉砕したとかは全然放送しないの。いきなり終戦のラジオがあった。
病院に行って、餓死した人を何人も見てから初めて、「戦争なんてなければこんなにみんな死ななくていいのに」って思ったね。
子供の時から教育されていたから、戦争が悪いって思わなかったね。日露戦争でも勝っていたし、負けたことがことがなかった。そのころは原子爆弾もなかったしね。
日本兵は、「死んでも尽くさんかな」という気持ちで、歯を食いしばって頑張っていたからね。
外国の人はさっさと逃げてしまうほうが多かった。それで負けたのもあるかもしれないね。
大東亜戦争までは負けたことがなかったから、負けると思ってなかったね。その時は東条英機が内閣総理大臣だった。命令が下っても誰も無理だと思わなかった。戦争反対って言うと捕まってしまう。作家とか写真家が戦争に反対するのは絶対に禁止だったね。
戦争には負けないって思っていたのに負けたから、みんな壁によりかかって座り込んでしまったの。そのあとから支那の方たちが全部倉庫へ入って、食べ物も毛布も全部持って行って、それを止めることができない。これが戦争だと思ったね。負けたっていうのはこのことだと思ったね。
今は、「戦争というものは絶対にするべきものではない」と思う。
自分の子供が戦争に行くとき、親はきっと悲しい思いをしたと思うの。あいさつをする方が「生きて帰りません」っていう発言しながらも、下を向いて家の事を考えたり子供の事を考えたりすると、とっても挨拶どころではないという気持ちもわかった。
自分が戦争に行くとなれば、妻や子供を残して戦死しなくちゃいけない。これが別れだと思って、胸がつまってあいさつが途中で止まっていた。その気持ちは複雑だったと思うよ。
その方の気持ちが子供心にも分かったよ。(終わり)
